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その日、彼は自室でオンラインゲームに興じていた。
その日だけではない。前日も、前々日も。
彼は数年来、カーテンを引いたままの薄暗いこの部屋から、ほとんど出たことがなかった。食事は、毎食家族が自室のドアの前に置いておいてくれる。彼が部屋のドアを開けて外に出るのは、食事を部屋に取り込むときと、トイレや風呂にいくときだけ。それも、家族がいない時間を見計らって、こっそりと。
彼は、もう何年もこの生活を続けていた。最後に家の外へ出たのは、一体、いつのことだろうか。高校一年の夏に引きこもり始めてから、もう7年の歳月が流れていた。
かじりつくように向かっていたノートパソコンの前から立ち上がり、おもむろにドアに向かう。先ほど、妹が学校に行くため家を出て行く足音が聞こえたが、今は家の中には誰も居ない。
ドアを開けると、廊下の脇にいつものトレーが置いてあった。トレーには、ご飯の盛られた茶碗と焼鮭、それに味噌汁の椀と麦茶のコップ。その上には白い布巾がかけられており、さらに脇には白い紙が添えられていた。
『聖へ』と書かれた白い紙を、中身も見ずに握りつぶすと、セイはトレーを持ち上げ、再び自室へ戻っていった。
もはや家族すら、彼を自室という殻の外へ連れ出すことは、とっくに諦めていた。
トレーを机の脇に投げるように置き、彼は再び椅子へ座る。
机上のノートパソコンに映る、小さな画面。その画面の中には、フィールドがあった。CGで描かれた架空の世界。小さな四角い画面の中の、広大な草原。画面の真ん中に、長身の男が立っている。無骨な赤銅色の鎧を着た戦士、それが彼の、このオンラインゲームの中での分身であった。
『待った?』
キーボードから打ち込んだ言葉が、ゲームの画面下に現れる。
赤銅色の戦士の前には、長い深緑のローブを纏う女性の姿がある。
『ううん。大丈夫。私も、飲み物取りに行ってたから』
『じゃあ、行こうか。今日はレベル90になるまで、付き合うから』
『うん』
CGで作られただけのキャラクターに表情はない。しかし、セイには、彼女が笑ったように思えた。
MMOオンラインゲーム。インターネットを通じて、数千人のユーザーが同一空間を共有し行うゲーム。
このゲームの中だけが、セイにとっての生活空間だった。
長い時間をかけて経験値を稼ぎ作り上げたキャラクター。他のユーザーが羨望を抱く、伝説の武器やレアアイテムの数々。このゲームの中で出会い、多くの時間を共にプレイし、気心の知れた仲間たち。それが、今のセイの全てだった。
このゲームの中だけに存在する、架空のものだと頭では理解していても。このゲームに熱中しているときだけ、彼は自分が生きていることを実感できた。
目の前にいる彼女は、ゲーム内にいる多くの知り合いの中でも、特に気の合う友人だった。ほのかな、片思いにも似た感情すら抱いていた。
今日も、セイは彼女と二人で経験値稼ぎの狩りに行く約束をしていた。
二人は、いつもどおり狩場に着くと敵であるモンスターを狩り始める。セイのキャラクターが前線に立ち、彼女のキャラクターが後方から魔法で支援するという攻撃スタイル。
何時間、一緒に狩りをしていただろうか。いつの間にかフィールドには、立ちはだかるモンスターを除いては、キャラクターはセイたちだけになっていた。
『らっきー☆ 今日は狩り放題だね! 珍しいくらいひと気がないね』
彼女が嬉しそうに言う。
二人の目の前に立ちはだかる巨大な二つ首の龍を倒した後、
『そろそろ、レベルあがるんじゃない? あと経験値、いくつ必要?』
『うんとね。わ! あと、1000チョット。次で、絶対レベルあがるよO(≧∇≦)O』
ふいに……。
そこまで会話が表示された後、突然彼女のキャラクターが目の前から掻き消えた。
珍しいことではない。回線の調子が悪く、彼女のネット接続が切れてしまったのだろう。
そう思い、セイはしばらく彼女を待った。いつも通りなら、接続を回復させて10分もすれば戻ってくる。…はずだった。
しかし、30分待っても、1時間経っても、彼女は戻ってこない。
(今日はもう、落ちちゃったのかな……)
余程、パソコンの調子が悪いのか、何か用事でもできて今日はゲームを続けられなくなったのだろう。セイは諦めて、別の仲間とコンタクトを取った。
『俺いま、暇してんだけど。一緒に、どっか行かない?』
異変に気づいたのは、翌日になってからだった。
毎日のようにゲーム内で見かけていた彼女の姿が、今日はまだ見えない。
それだけではない。ゲーム上の機能で、親しくなったキャラを登録しておける友達リストの中からも、彼女のキャラクターの名前が消えていた。
(え…………キャラ消しちゃったのか?)
慌てて、彼女のことを他の友人たちに尋ねてみる。しかし、予想に反して、誰も彼女のことを知らないと言う答えが帰ってくるばかりだ。
彼女の存在を忘れてしまったのだろうか。いや、そうではない。誰もが、初めから知らないかのような態度で応じるのだった。
『誰、それ。そんな奴、俺らの仲間にいたっけ?』
『新しく入った人? 知らないなぁ』
『私、ここんとこ毎日来てるけど、一度も見かけたことないよぉ? その名前』
(……え? ちょっと待てよ。お前ら、知らないはずないだろ。何ヶ月も一緒に遊んでいたのに)
気持ちの悪い、動悸がした。
(どういうことだ。なんで誰も知らないんだよ。おかしいよ! 知らないはずないだろ!?)
冷たい汗が背中を伝い、自分の頭がおかしくなったような錯覚を覚えた。
心臓を何者かの腕で鷲掴みにされたかのような息苦しさを感じながら、セイは彼女を、ゲームのフィールド中、駆け回って探した。彼女を知っているはずの人間に片っ端から当たってみた。思いつく限りのことを試みた。
しかし、彼女を知っている人間は、誰一人みつからなかった。
(おかしいのは、僕の方……。いや、違うよ! だって、いままで何日も何ヶ月も一緒に遊んだんだ。昨日だって、一緒に狩りに……)
部屋に引きこもって、数年。気がつけば、とっくに二十歳を過ぎ、中学時代の友人たちは大学へ進学したり就職したり、真っ当な人生を歩んでいる。もう取り返しのつかないくらい、自分は取り残されてしまったんだという焦りと諦めが、常に彼の心にはあった。
彼女は、そんな寂寥感の中、人恋しさからセイが脳内で生み出してしまった幻だったのだろうか……。
(……違うよ。そんなはずない。だって……)
彼女は、確かに存在したんだ。何時間も何十時間も一緒に話したんだ。
彼女を探さなきゃ。
自分の頭の正常さを、自分自身に証明するために。
他の友人たちに、彼女を思い出させるために。
そして何より……彼女を失ってしまったら、生きていく自信がないから。
彼女にもう一度、会いたい。
その強い想いが、彼をドアの外へと押し出した。
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