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次の日の午後。
母親が買い物に出かけるのを、セイは自室で待っていた。
自室の椅子の上に座り、片膝を抱いて、落ちつかなげに親指の爪を噛みながら。
母親はいつも、昼のワイドショーを見終わってから買い物に行く。今日もまた、日が少し陰りはじめた頃合に母親が外出の支度をする音が階下から聞こえてきた。ドアの鍵を閉め、門を開け閉めして、足音が次第に小さく遠くなっていく。家の中はしんと静まりかえり、ただ時計の音だけが、いつまでもカチカチと小さく響いていた。
ようやくセイは椅子から立ち上がると、足早に階段を駆け下りた。
まっすぐに玄関へ向かう。
靴箱から、埃にまみれた自分のスニーカーを探しだして叩くと、白い煙が舞った。
(きっと、彼女に何かあったんだ。助けるんだ)
その思いだけが、セイの頭の中を支配していた。いや、意識的にそれしか考えないようにしていた。
他のことを考えてしまうと、きっと、外へ出る意欲をなくしてしまうから。
何年かぶりに自ら開けたドアの外には、抜けるような青い空が広がっていた。



それから、駅まで歩き、電車に乗った。向かうのは、神奈川県のK駅。
彼女の消息について、大したアテがあるわけではない。
彼女についてセイが知っていることは、携帯のメールアドレスと彼女が看護婦として病院に勤めていたという事。Chisatoから始まるそのメールアドレスには、もう何度も安否を気遣うメールを送った。しかし、全て『送信先アドレスがみつかりません』とのメッセージとともに返ってくる。そのこともまた、セイの焦りを強くしていた。
それから、もう一つ。
彼女のことを調べる唯一の手がかりと言えるものがある。それは、以前彼女との会話の中で聞いた話だった。
『ねぇねぇ。聞いてよ。今日、うちの病院にさ。ジェイドのKAZが運ばれてきたの! もう、びっくりしちゃった。私、KAZの担当にならないかな〜』
『へぇ…ジェイドって…あの? こないだもアルバムがいきなり週間売上1位になったとか言ってた、あのジェイド?』
『そうそう。そのジェイドのボーカルだよヘ(>ロ<)ノ  なんか、過労で、うちの病院に運ばれてきたんだって。たまたま、うちの病院の近くを車で移動中に倒れたみたい。じゃなきゃ、うちの病院なんて来ないよね』
彼女はジェイドの熱烈なファンだった。そんな彼女から、興奮気味にKAZを見たという自慢話を聞いたのは、つい先月のことだ。
ジェイドの情報は、ネットで探せばすぐに見つかった。ボーカルのKAZが緊急搬送されて入院したのは、K中央総合病院。
そこで、彼女は働いているはずだ。



K駅で電車から降りて、セイは驚いた。
(大きな駅……)
ホームの屋根をドーム状に覆う高い天井を見上げて、セイは立ち止まった。
夕方の駅構内は、足早に行きかう人々で、ごったがえしていた。
久しぶりの人ごみに、息苦しさすら感じる。
(ここに居たら、窒息しそうだ)
人の流れに上手く乗れず、何度もぶつかりそうになりながら、セイは改札へ向う。
ようやく改札を出たセイは、目の前に広がる光景に、思わず立ちすくんだ。
(うわ……)
延々と続くネオンの洪水が目の前にあった。
通りには大勢の人がひしめきあい、話声や客引きの声、あちこちの店から流れる音楽などの大量の音で、ワン…という耳鳴りさえ聞こえてきそうなほどだった。
通りを囲むように両側に立ち並ぶ雑居ビルには、有名な居酒屋チェーンから小さなスナック、風俗店、カラオケなど様々な店が並んでいる。


ここは、日本有数の歓楽街。
快楽と酒と欲望の渦巻く街。
そして……この国で、もっとも治安が悪いと言われる地域。
通称『テマ』と言われる地域の、表通りがこの駅前通りだった。



(ここが……テマ)
高校1年からほとんど社会と隔絶した生活を送っていたセイでさえも、この街のことは聞いたことがあった。
『表通りで、遊ぶのはいい。大学のコンパや会社の飲み会なんかで立ち寄ったことある奴も多いだろう。でも、表通りから一歩裏道へ入り込んではいけないよ。あそこは、不法移民が大量に住む区域だから。……何が起こるかわからない。裏にいけば、二度と、生きては戻ってこれなくなるって話だよ』
そう教えてくれた、オンラインゲームの友人の言葉が、まざまざと思い起こされる。
セイは、慌てて背負っていたリュックの中から、地図を取り出した。
(間違いない。K中央総合病院は、この表通りを南に下ったとこにある。でも、まさか…彼女のいる病院がテマにあったなんて…)
『テマ』というのは、俗称である。そんな名前が、地図上に載っているわけではない。
一説によると、手間のかかる地域だという意味で警察関係者が、この辺り一体をそう呼んだのは始まりだと言われている。
(……そうだと知ってれば、来たりなんか、しなかったかも……)
後悔の念が頭をよぎるが、
(ここまで来たんだ。とりあえず、行くしかない)
なけなしの勇気を振り絞って、セイは一歩を踏み出した。



K中央総合病院は、簡単にみつかった。
病院の敷地は表通りから一歩裏手に入ったところにあったが、10階建ての高い病棟のうえに付けられた大きな看板が、表通りからもよく見えた。
エントランスから、病院の中へ足早に向かう。
入ってすぐに、大きな吹き抜けがあり、高い天井の上に開けられた広い採光窓から、赤い夕日が柔らかく降り注いでいる。
清潔感溢れる院内は、外の雑踏とは別世界だった。
(どこに行けばいいんだろう)
きょろきょろと、辺りを見回すと、受付カウンターが目に入った。
既に受付時間を過ぎていることを示すプレートがカウンターの上に置かれていたが、カウンターの奥ではまだ数人の看護婦や事務員が忙しそうに働いている。
(……あそこで、訊いてみよう)
駆け寄るようにカウンターへ近寄ると、
「あ、……あの」
一生懸命声を振り絞るが、かすれた小さな声が出ただけで、カウンターの奥にいる人たちには聞こえていない。
(どうしよう…やっぱ、無理だよ。どうしよう…)
考えてみれば、誰かと直接話すのも、数年ぶりだ。今では、家族とドアごしに言葉を交わすことすらなくなって久しい。
声をかけることも、立ち去ることもできず。ただ、あたふたしている挙動不審のセイに、ようやく受付の一人が気づいた。
「あの……どのような、ご用件でしょうか」
にこやかに言葉をかけられるが、口をついて言葉が出てこない。
「あ……え、…その……」
なんだかもう、泣きそうな気分になる。気分だけじゃなく、今にも泣き出しそうな顔をしていたかもしれない。
「診察、ですか?」
少し怪訝そうな顔をしながらも、事務の制服を着た女性は、なおも訊いてくる。
「あ、あの……探してるんですっ!」
ようやく声が出た。思いのほか大きな声に、事務の女性もセイ自身も驚く。
「……面会、ですか?」
「そ、そうじゃなくて……」
それから、たっぷり十分くらいかかって、セイは人探しをしていること。その人はこの病院で看護婦として働いていること。おそらく、チサトという名前であることなどを告げた。
二人のやりとりを、他の看護婦や事務員たちも、ちらちらと気になる様子で見るとはなしに見ている。
「……もうしわけないのですが、そのような職員は、当院には……」
応対している事務員には、既に早く追い返したいという空気が露骨に漂っている。
「そんなはず、ないんですっ。ここに、いるんです! 前に、ジェイドのKAZが入院したのって、ここなんでしょ? 彼女言ってたんですっ、僕に。個室担当の友達に頼んで、 KAZの病室覗かせてもらったんだって、イメージどおりですごくカッコ良かったって!」
セイは、一息に捲くし立てた。わずかな間を挟み、もう一度口を開こうとしたとき、セイは背後から肩を捕まれた。
驚いて振り返ってみると、そこには防弾チョッキを来た屈強な黒人と白人の男が立っていた。胸のチョッキには、K中央総合病院の文字が白地で大きくプリントされている。この病院の警備員だろう。
「ちょっと、来ていただけますか」
黒人の男はセイの腕を掴むと、有無を言わせぬ態度でセイを引っぱりだした。
「え? ……え!?」
一応抵抗して、今までいたカウンターの方に戻ろうとはしてみるのだが、まるっきり歯が立たない。セイは病院の外まで引っ張って行かれ、そこでようやく開放された。
「お話があるのでしたら、警察の方を入れて、三者でお話を……」
とまで言われ、セイは病院に戻ることを諦めた。
「……いえ、何でも、ありませんから」
それだけ呟くと、表通りへと続く道へと、とぼとぼと歩き出す。一度振り返ると、屈強な警備員たちの向こう側に、夕焼けの明かりで赤く照らされた病院の大きな自動ドアが見えた。



セイは、夢遊病者のように、テマの表通りを駅へと向かった。けれど、歩いても歩いても駅への距離が縮まらないような錯覚を覚えるほど、セイは精神的にも肉体的にも疲労困憊していた。この数時間で、数年分の勇気を使い果たしたような気分だ。
(だめだ。倒れそう……)
疲労に霞むセイの目に、見慣れたロゴの看板が飛び込んできた。
日本中いたるところにある、大手ファミレスチェーンのK駅駅前店。セイも、引きこもりを始める前は、週末何度も家族でこのチェーンの地元店に足を運んだことがあった。
(ここなら、入っても大丈夫かも。休もう……とりあえず、今すぐ、座りたい)
吸い寄せられるように、セイはファミレスの中に入っていった。
案内された席に腰を下ろすと、注文する間もなくセイはテーブルの上に上半身を倒れ伏せた。体に根が張ってしまったように、動かない。限界だった。
ほどなくしてウェイトレスが注文を取りに来たが、何度声をかけてもセイが起き上がらないため、諦めて去っていってしまう。
テーブルに伏せたセイの頭の中に、いくつもの想いが渦巻いていた。
耐え難い疲労感。チサトのために、結局何もできなかった徒労感と悔しさ。先ほど警備員から受けた非礼な扱いへの屈辱感。自分は結局駄目な人間なんだという劣等感。
そういった、渦巻く黒い感情に流され押しつぶされていた。



どれくらいそうやって、伏せていただろうか。
周りの席の客たちは、もう何度も入れ替わり、窓の外はすっかり帳が落ちてネオンの光がより鮮明に輝きはじめていた。
時間が経つにつれ、セイの頭は少しずつ冷静さを取り戻してくる。しばらく伏せていたので、体力的に回復してきたというのも一因かもしれない。
頭の中を駆け巡っていた黒い感情が次第に薄れ、今はただ、ぽっかりと穴が開いたような空虚さがセイの脳内を占めていた。
テーブルにつっぷしたまま、呆けたようにぼんやりしていると、周囲の騒音が聞くとはなしに耳に入ってくる。
若い女性の賑やかな笑い声や、早くも酒が入り始めたのか煩いがなり声で話す男たち、注文を取るウェイトレスや、店内を走り回る子供たちの声。
そんな周りの声を、セイは身じろぎもせず耳にしながら、少しウトウトしはじめていた。
そのセイの耳に、ふいに若い男の声が飛び込んでくる。
「だから、お前。何かの勘違いちゃうん? もしくは、幻聴。最近、ちゃんと病院行っとるかぁ?」
「……うるさい。幻聴なんかじゃねーよ」
不機嫌そうに応じる、もう一人の低い声。
向かいの席だ。
どうやら、若い男の二人組みらしい。かなり、気さくな様子で話している。
「だって、信じられるか。人が消えた……なんて話」
(え……)
セイは、耳を疑った。
今、何て言った? 人が、消えた?
眠気なんて、一瞬にして吹き飛んでいた。
突っ伏した姿勢のままだったが、二人の会話に吸い寄せられるように意識を向ける。
「俺だって、わけわかんねぇって……。昨日の明け方、次の取引のことで電話してたんだよ。そしたら……」
低い声の方の男が、もう一人の関西弁の男に説明を始めた。
要約すると、こうだ。
彼は昨日の朝4時ごろ、仕事の打ち合わせをしようと、仕事相手に携帯で電話をした。相手は自宅にいたようで、いつもどおり仕事の日時の打ち合わせをしていた。ところが、話の途中で、突然相手の声が途切れ、電話が切れた。怪訝に思った彼は、もう一度電話をかけ直したが、今度は『現在、その番号は使われておりません』のアナウンスになってしまったというのだ。
「お前それ、相手が電話料金払ってなくて、回線切られただけなんちゃう?」
「……違う。それだったら、『現在この番号はお客様の都合で使用できなくなっています』ってアナウンスになるはずなんだ。ディンゴんちが、昔はしょっちゅう料金払えなくなって電話止められて、そういうアナウンスよく聞かされてたから間違いない」
一呼吸置いて、彼は話を続ける。
「なんか、気持ちの悪い感じがしたんだよ。よくわかんないけど……。胸の奥に物がつまったような、そんな胸糞悪さ」
(それ、僕も感じた! チサトが消えたとき!)
トクン……とセイの胸が波打つ。
興奮で、次第にその動悸は強くなり、体全体が鼓動しているかのような熱を感じていた。
今まで、自分の勘違いかもしれないと、どこかで不安に思いながらここまで来た。もしかしたら彼女は、自分が頭の中だけで作り上げた存在だったのかもしれない。それがいなくなったと騒いでいるとしたら、おかしいのは自分の頭の方だ。
(でも……)
この人も、同じことを経験していたとしたら。
人が消える現象は、やっぱり現実なのかもしれない。
セイの思いなど露知らず、二人組みの会話は続く。
「それで、俺。そいつを探したんだよ。そいつがよく行く店とか、知り合いとかにあたってさ。……なのに、誰も、そいつがどこに言ったか知らないんだ。いや、あれは……まるで……」
やはり、セイと同じ行動をしている。そして、結果も……。
もう我慢できないくらい、セイの動悸は強くなっていた。
「まるで、初めからいなかったかのようで」
(……!)
何から何まで、自分の経験と同じ話に、セイは溜らず立ちあがって叫んだ。
「同じだ! 何から何まで、僕と同じ!」
向かいのテーブルの男たちは、突然立ち上がったセイを、驚いた顔で見上げた。
(あ……え……)
彼らと目があって、セイは全身の血がざーっと一気に引くようだった。
歳の頃は、セイより少し上くらい。一人は、面白いものを見るような目でセイを見る、学生風の男。しかし、半そでのシャツの下からは腕を這い降りようとする龍のタトゥーが覗いていた。もう一人も、黒っぽいシャツとジーンズというやはり普通のいでたち。けれど、煙草片手に悠然とソファに腰掛けたまま、他人を寄せ付けない雰囲気でセイを鋭く睨み見る視線の冷たさに、セイは蛇に睨みつけられた蛙の心境だった。
(やばい……。なんか、普通じゃないっぽい、この人たち……)
ここは犯罪の街テマなのだということを今更ながら思い出しながら、いかにもこの街が似合う危険な感じのする二人を前に、セイは自分の迂闊さを心の中で激しく後悔した。


 

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