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「ご、ごめんなさい……」
その二人組みの男たちと数秒間見詰め合った後、ふと我に返ったセイは、慌てて椅子の上に置いてあった自分の鞄を掴み、その場を立ち去ろうとした。
しかし、腕を捕まれて、彼はすぐに引き戻される。
「待てよ」
低い声が、すぐ背後でした。おそるおそる後を振り返ると、二人組みのうち黒っぽいシャツを着た男が立っている。中肉中背のセイより、さらに頭半分ほど背が高い。
「は、離して、くださ……」
か細いセイの声を掻き消すように、
「同じ、て何だ。どういうことだよ」
男が言葉を重ねる。
漆黒の闇のような男の双眸に、セイは身を竦ませた。男に捕まれた腕が、じんじんと痛む。
「イザ……。やめたりぃや。怯えてはるやん」
「……」
イザと呼ばれたその男は、連れの関西弁男をじっと見たあと、しぶしぶといった様子でセイから手を離す。
そして、テーブルに浅く腰掛け、セイを睨むように見やり、
「話せよ」
腕を組んで、すっかりセイから話を聞くつもりのようだった。
大人しく返してくれるつもりはないらしい。ここで抵抗して逃げようとしたりすれば、彼は間違いなく追いかけてくるだろう。そして、路地にでも連れ込まれたら……そう思うと、身震いをしそうな気分だった。
今のところ、彼らはセイをファミレスの外に連れて行くつもりまではないようだ。周りに他の人がいる場所なら、まだ少しは安全だろう。
仕方なくセイは自分のことを話しだした。
オンラインゲームの最中に、友人のチサトが消えたこと。誰も、彼女のことを覚えていないこと。彼女を探してここまで来たけれど、手がかりがなくなってしまったこと……。
二人は、黙ってセイの話を聞いていた。
セイの話が一段落すると、真っ先に口を開いたのは関西弁男だった。
「イザ。お前の話と、ほとんど一緒やな?」
イザは頷く。そして、どこかほっとしたように表情を崩して、関西弁の男に苦笑した。
「そうだな。……あー、良かった。俺の頭が、一段とおかしくなって、現実と区別つかない幻覚まで見るようになったのかと思ったよ」
(あれ? 僕と、同じこと思ってたんだ、この人……)
ほんのわずか親近感のようなものが沸いてくる。
「で。何やと思う? この怪奇現象」
関西弁男の問いに、イザはしばらく考えた後、考えをまとめようとするように、ゆっくりと喋りだした。
「俺の知り合いの、その消えた運び屋も。こいつが言ってる、ゲームの中の友達も。本当に存在していて、そして突然、周りの人間の『記憶』まで道連れにして忽然と消えた。『記憶』だけじゃなく、携帯番号なんかの『記録』も一緒に。……それを証明するものは、俺らの頭の正常さを信用するしかないんだけど。ただ……『記憶』が残らなかったほかの奴らと、たまたま『記憶』が残った俺とコイツとで違っていた点は」
そこで言葉を区切って、一息ついてから。確認するような口調で続ける。
「……消えた瞬間に立ち会っているかどうか、だよな?」
「あ……」
セイは思わず声をあげた。そうだ、僕らは彼女たちが消える直前まで彼女たちと会話をしていた。だから、消えた事実、消えた人のことを覚えていた。もし、彼女たちが消えた瞬間に立ち会っていなかったとしたら、僕らもまた彼女たちの記憶をなくし、それを特にオカシイとも感じなかったのではないか。 
「事実、その運び屋。お前とも顔馴染みのはずなのに、お前まったく覚えてねーし。俺とお前とで違うことっていったら、その辺しか思いつかない」
「あれ? そうやったっけ? ……ワイ、全然記憶にない。そんな奴のこと」
不思議そうに関西弁男は首を傾げる。
そんな連れの様子に、イザは諦めたように軽くため息をついて。
「……この話。追いかけてみたら、面白いものが出てくるかもしれないな」
そういって、一人、呟いた。
二人の関心が自分から逸れつつあることを感じて、セイはそろそろと静かに二人のもとから離れつつ。
「それじゃあ、僕はこれで」
立ち去ろうとする。
が、
「逃げるなよ。これ、いらないのか?」
イザの声に振り返ると、彼が携帯のストラップを手に持って掲げるのが眼に入ってきた。
「え? あれ? それ……」
セイの携帯電話だ。ジーンズのポケットに入れておいたはずなのに。いつ抜き取られたのか、セイはまったく気づいていなかった。
「返してくださいっ」
赤い顔で、セイは叫ぶ。もう、こんなやっかいそうな人たちと関わりたくない。一刻も早く、この場から逃げ出したかった。
「手伝ってくれよ。絶対、なんかあると思うんだ、今回のこと。俺らの、頭がイカレてるわけじゃないってことを、証明しようぜ?」
しかし、セイは握った拳に力を込めて、真っ赤な顔で繰り返すだけだった。
「返してくださいっ」
何度目かのセイの言葉を聞きながら
「あ、そう……」
イザは素っ気無く呟くと、セイの携帯電話を使って、彼に断りもなくどこかへ電話をかけはじめた。
(え、ちょ……勝手に……)
電話はすぐに、繋がる。
「あ、ディンゴ? 俺。ちょっと、一件調べてほしいことがあるんだけど、時間ある? ああ、そう、この携帯の持ち主のこと。よろしく」
それだけ言うとイザは、電話を切った。
「な、何を……」
イザが電話を切ってから1分ほど経った後、イザの手にあるセイの携帯電話が鳴る。
彼が何をしようとしているのかが理解できず、戸惑うセイを尻目に、イザは電話を受ける。
「はい。……ああ。わかった。ありがとう」
戸惑いに言葉すら発せられないセイに向かって、イザは携帯電話を投げ返した。
いきなり投げ返された携帯電話を、取り落としそうになりながらなんとかキャッチしたセイに。
「スズカ セイ」
突然、イザの口から自分のフルネームが飛び出してきて、セイはビクッと体を振るわせるほど驚いた。そんなセイの様子を、どこか悪戯を楽しむような薄い笑みを浮かべて眺めながら、イザは容赦なく続ける。
「203×年1月9日生まれ。住所は埼玉県所沢市星の宮3−15−6。これくらい判れば、お前が今ここから逃げても、お前んちまで連れ戻しにいくことができるよな」
セイは、目の前が真っ暗になった。脅す気だ。脅迫する気だ。この調子だと、本当に家まで押しかけてくるかもしれない。そうしたら、家族にまで危害が及ぶかもしれない。
「携帯の番号からでも、この程度のことはすぐに調べられるんだよ」
セイの頭の中で、ぷつりという音がしたような気がした。
張り詰めていた緊張の糸がついに引き千切れ、セイの目に見る間に大粒の涙が溜っていく。
涙が両目から頬を伝ってボロボロと零れ落ち、
「う……あ、あああああああ!」
立ち尽くしたまま、セイは羞恥心も忘れて、子供のように泣き出した。
周りの客たちも、何事かとこちらを振り返る。
「……バカ。やりすぎや」
関西弁の男は頭を抱える。
「あれ……?」
さすがに本人もやりすぎたと思ったのか、イザも困惑した顔で、頬を指で掻いた。



「えぐ……えぐ……」
「な。もう泣かんとき。このバカには、あんたに手出しなんかさせへんから。温かいもんでも頼むか? 何か口に入れたら落ち着くて。それとも甘いもんがええやろか。パフェとかどうやろ。な?」
引き続き、ファミレス内。
ひとしきり大泣きした後、セイは関西弁男に勧められるままに彼らの席に腰を下ろして、まだしゃくりあげていた。
その隣に、関西弁男…彼は圭吾と名乗った…が座り、今も必死に慰めている。
イザは彼らの向かいに腰を下ろすと、退屈そうにアイスコーヒーをストローで啜っていた。
「ごら。イザ。お前が泣かせたんやろが。責任とって、なんとかせんかい」
圭吾の文句にも、イザは意に返す様子もなく、ぼんやりと圭吾たちを……いや、圭吾たちの背後の景色を眺めるだけだった。
役に立たないイザのことは放っておくことにして、圭吾は何とかセイを落ち着かせようと彼の背中を擦って宥める。何か頼もうかとメニューを開いたとき、
「……なぁ。あの女、お前の知り合い?」
ストローを噛んで咥えたままのイザが、突然小声でセイに尋ねた。
「え?」
だいぶ落ち着きを取り戻しつつあったセイが、泣きはらした真っ赤な目で顔をあげる。
そのセイに、あっち、というように目線だけでイザはセイたちの背後を示す。
「何や?」
セイと圭吾が同時に背後を向いた。
いくつかテーブルを挟んで、窓際の一番奥のテーブル。
そこに座る一人の若い女と、目が合った
目が合うと、すぐに女は俯いて目をそらし、テーブルに置いた雑誌を見ているフリをする。フリだと判るのは、しばらくする目をあげてちらりとこちらを見、まだ彼らが彼女の方を見ていることがわかると、慌ててはっきりと目を逸らしたからだ。
「誰や、あれ。セイ、お前の知り合い?」
圭吾の問いに、セイはブンブンと首を横に振って答える。
「じゃあ、誰や……あ、おい、イザ!」
「……今日は、妙な客が多いな」
やれやれと気だるそうにイザは立ち上がると、その女のいるテーブルへと歩いて行った。
そして、雑誌に目を落としている女の側までいくと、テーブルに片手をついて。
「何か、用?」
セイを問いただしたときよりは、幾分弱めの口調で尋ねる。それでも、突然やってきたイザの姿に女は驚いて、目を合わせないように俯いたまま。
「何ですか?」
平静を装おうとしていたが、声が微かに震えていた。
「俺たちのこと、さっきからずっと、見てただろ」
「知りません。変なこと言うと、警察を呼びますよ?」
強張った表情でキッとイザを見やるが、彼の顔を間近でみて、あれ?と表情を変える。
「……なんだよ」
「な、なんでもありませんからっ」
慌ててそう言うと、女はテーブルの上においた雑誌を閉じて、心の乱れを整えようとするように小さく息をついた。
「私は……ただ、あの人と話がしたかっただけ」
あの人…といって女はセイに目をやる。
「……セイに?」
もう一度、小さなため息をつく。
「……名前は知らないわ。さっき職場で見かけただけだから。でも、彼の言ってたことがずっと気になってて。そしたら、仕事終わって家に帰ろうと道を歩いてたら、この店の窓から彼の姿が見えたの。詳しい話を聞きたいと思ってたんだけど……ずっと、貴方たちに絡まれてたから声をかけれなかったのよ」
(絡んでたわけじゃねぇんだけど……)
頬をかきながら、イザは思うが、端から見たらどう見ても、気弱な彼に柄の悪い彼らが絡んでるようにしか見えなかっただろう。
「話聞きたいんだったら、あっちにこいよ。邪魔しないし。それとも、俺等がいたんじゃ、迷惑?」
女は、ゆっくりと頭を横に振る。
「いいえ。別に……大した話じゃないから」



イザに連れられて女は、セイたちのいる席にやってきた。
セイの顔を見ると、彼女は軽く頭を下げて会釈する。
「はじめまして。あなた……さっき、あそこのK中央総合病院の受付にいた人よね?」
女の言葉に、セイは目を丸くした。
「見てたの……?」
女はコクンと頷く。圭吾に勧められて一瞬躊躇ったものの、イザの隣に浅めに腰をおろして、話を続けた。
「私、あの病院で看護婦をしているの。あのとき、たまたま受付の近くにいて、あなたの話を立ち聞きしちゃって」
そこで一旦話を区切ると、彼女は言葉を止めた。これ以上話していいものかどうか、自分でも迷っているようだった。他の3人はただ黙って彼女が話し出すのを待っていると、彼女は手近にあった誰のものかわからないコップの水をいっきに喉に流し込み、口早に語りだした。
「私、あなたの話を聞いて、思い出したの。あなた、言ってたでしょ? 誰かを探してて、その人はジェイドのKAZが入院したときに、個室担当の子に頼んで病室に見に行ったって」
セイが頷くのを見て、彼女は安堵したのか口元の表情だけ崩して小さく笑った。
「その人が頼んだ個室担当の子って……たぶん、私」
「え……じゃ、じゃあ、君はチサトを知ってるの!?」
驚くセイの言葉に、彼女は、今度は力なく首を横に振ってみせた。
「私は、個室病棟の担当をしているの。そして、友達の子に頼まれて、KAZが入院したとき、一緒に彼を見に行ったわ。あなたの話を聞いたとき、そのときのことを思い出した……でも、どうしても思い出せないことがあるの」
額に手をあてて、苦しそうに呟いた。
「一緒に行った、その子が誰だったのか。名前も、顔も、何ひとつ思い出さない。私、去年の春にあの病院に配属になったばかりで、そんなに知り合いもいないの。だから、忘れるなんてことあるはずないのに」
他の病棟の者を、たとえ内部の者であっても、私事で個室病棟内に通すことは病院の規則で禁止されている。まして、入院していたのは、有名なアーティスト。病院側でもプライバシーの保護に相当の配慮をしていたはずだ。そんな中、たとえ同僚の看護婦であっても、個室を訪れることに手をかすことは、上司に知れれば何かしらお咎めを食うことになる。それにもかかわらず、手を貸したということは、相当仲の良い子だったはずなのだ。親友とも呼べるほどの。
「KAZを一緒に見に行ったときの、情景はよく覚えているの。でも、その子に関することだけが、すっぽり……まるで写真から彼女の部分だけ切り抜いたみたいに、消えてる。だから、あなたから何か話を聞くことができれば、もう少し思い出せるんじゃないかと思って!」
彼女に、いきなり手を握られ、目を白黒させているセイ。圭吾は、先ほどセイのために頼んだが、セイが手をつけようとしないパフェのクリームをスプーンで掬って口に運んでいたが。
「少なくとも。セイの話の件については、証言者が二人になったわけやな。……これは、ほんまに、幻覚とか気のせいとかでは済まされへん話かもしれんな」
「……とりあえず、調べるだけ調べてみよう。まだ、他にも同じような類の話が転がってるかもしれない。にしても、つかみ所のない話だな。……どっから、手をつけていいのやら」
このまま4人で話し合っていても、新しい情報は出て来なさそうだ。何か情報が入ったらイザの方から連絡するということにして、彼らはお互いの連絡先を交わして、今日のところはお開きにすることとした。
「あー……ワイは、さっきも言うたけど、圭吾や。横浜の大学のマスターで、史学を専攻しとる。んで、こっちの目つき悪いのは………えーと、この場は、イザでええか?」
イザは、圭吾を軽く睨み。
「……お前、さっきから俺のこと、イザって連呼してんだろ。今更、遅えーよ」
むっつりとするイザの肩を叩いて、
「何の仕事しとるかは聞かんといてやって」
にっこりと笑む圭吾に、きっとろくでもない仕事してんだろうな……とセイは内心思う。だって、ここはテマだし。いかにも裏の仕事が似合いそうだったから。
「私は……ハルカ。あの病院で看護婦をしてるわ」
「僕は……」
セイは、口をつむぐ。自己紹介する内容なんて、自分には何もなかったからだ。ずっと家に引き篭ってます、なんて、いくらなんでも初対面の人に言いたくはない。
妙に間があいてしまった会話に、気まずい空気が流れるが、
「セイ、だろ? それだけ判れば、充分だ」
イザの一言で、セイはそれ以上自分のことを語らずに済み、内心ほっと胸をなでおろした。



ファミレスの前で圭吾とイザの二人と別れ、ハルカとセイは駅へ向かって歩き出した。
時間は夜の8時過ぎ。セイが今日の夕方にこの駅に着いたときよりも、ひと気はさらに増え、表通りは活気に溢れていた。
カラオケ店のチラシを持ったキャッチを交わしながら、二人は人ごみを縫うようにして駅へと歩く。その途中、
「あの人たち……気をつけた方がいいと思う」
ぽつりと、ハルカが言った。
「え……?」
(そんなこと言われても、名前も住所も知られちゃったしな……)
その辺りの事情を知らないハルカは、歩きながら尚も話を続ける。
「あの、イザっていう人。私、前に会ったことあるの」
「そうなの?」
ハルカは小さく頷く。
「あの人、前にうちの病院の個室に入院していたことがあって、私、担当したことある。目の色も、名前も違ったけど……たぶん、同じ人」
瞳は、あんな闇のような黒色ではなく、明るいエメラルドグリーンをしていた。名前も、普通の日本人っぽい名前だった。
「背後から銃で撃たれたっていう話だった。本来なら、何ヶ月か入院が必要なはずなのに、手術が終わって動けるようになったら、すぐに転院してしまったけど……」
あの病院は土地柄、そういう犯罪がらみの患者が運ばれてくることも多かった。そんな中、彼のことを覚えていたのは、こんなことがあったからだ。
ハルカは、昨年春に看護大学を卒業して、あの病院に新任看護婦として配属されたばかり。看護技術も、まだまだ未熟だった。その日も、朝から休憩をとることもできずに働きづめで体が疲労していたこともあって、苦手な注射がいつにもまして刺さらなかった。何度針を刺そうとしても、上手く静脈に刺せないハルカを、彼は腕を出したままじっと待っていたが、ついに痺れをきらしたらしく。
『貸して。自分でするから』
とハルカの静止も聞かずに彼女の手から注射器を取り上げると、彼は自分で腕に注射を刺した。その手つきがあまりに自然で慣れていたため、ハルカの記憶に強く印象が残ったのだ。
普通の人が自分で自分に注射を打つ機会は、ほとんどない。考えられるとしたら、自宅でも自分で薬剤を注入しないといけないような慢性的な持病を持っているか、注射器をつかうドラッグを常用していたか、だ。彼の場合は、カルテにそんな持病の記載はなかった。だとすると、後者の可能性が高い。偽名を使っていたことから考えても。
「何にしろ、まともな人間じゃないわよ。あの人たち。あまり、係わり合いにならない方がいいと思う」
ハルカの言葉に、セイは、うん、そうだねと生返事で応じる。
ハルカはともかく、弱みを握られてしまった自分は、彼らから離れられそうにないなと暗澹たる気持ちになった。
 

 

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