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「この街は生まれ変わります。10年後の204×年の完成を目標に、再来年から順次、工事を着工。まずJR○○駅と京浜急行○○駅を一つの駅へと合併して、乗り換えをスムーズにします。そして、駅前商業施設、住宅棟、オフィス棟として超高層ビルの計画が……」
駅前のビルに設けられた巨大な街頭ディスプレイに流れる自治体の宣伝放送に、わざわざ足を止める人などいない。スクランブル交差点の信号が青に変わると、駅から吐き出された人ごみは一様に足早く各々の目的地へ向かおうと通り過ぎるだけだ。
その人ごみの中で一人、イザは立ち止まり、その宣伝放送を静かに眺めていた。ディスプレイに映し出される、10年後のこの街、この場所の予想図。超高層ビルが建ち並び、ビルの合間は公園のように樹木が植えられ、小奇麗な衣服を身に着けた人々が行き交う街。何の特徴も、少しの毒気も、そこには感じられない。今、この街に住むほとんどの人間にとって、一生縁のなさそうな、クリーンな場所。
(つまらない。くだらない……)
心底、そう思う。
この街を。ほとんどの街が均質で何の特徴もないこの国の中で、かろうじて混沌と暴力と異文化が支配するこの街を。
(壊させはしないさ。誰にも)
イザは、ポケットから携帯電話を取り出すと、履歴から電話をかけた。相手先は、ディンゴ。
『はい』
数回コール音が鳴ったのち、聞き慣れた声が返ってくる。
『イザ。何の用?』
「ちょっと、新たに調べてほしいことがあってさ。それと、もう一つ、相談事。これから出てこれるか?」
やや間があった後。
『うん。いいよ。どこで会う?』
「んじゃ、『calnn』で」
『りょーかい』



1時間後。
イザが『calnn』のテーブルで、ウィスキーのグラスを片手に待っていると、待ち合わせの時間より少し遅れて、ディンゴが顔を見せた。
ディンゴは、サカキの店で取り乱しこそしたが、次の日には見かけ上はすっかり落ち着きを取り戻し、いつもと変わらない様子で過ごせるようになっていた。ただ、あれから1週間近く経つにもかかわらず、一向に母親の消息は掴めていない。兄弟総出で母親を探し続けているらしいが、一流のハッカーであるディンゴの情報網にも、他の兄姉たちの元にも、母親発見に繋がる有力な手がかりは何一つひっかかってこなかった。
そんな話をディンゴから聞いたあと、イザは、今日、ディンゴを呼び出した用件に話題を移す。
「あのさ。調べてほしいものがあるんだ」
つまみのポップコーンに手を伸ばしながら、ディンゴが、ああ、そういえばそんなことを言ってたっけという顔をする。
「何?」
「難しい用件じゃない。テマの、不動産……そうだな。特に、駅前から繁華街を中心とした、近頃、再開発するとか言われてる辺りの土地と建物、その所有者と変遷を調べてほしい」
「所有者と……へんせん?」
ディンゴは、手の平いっぱいに摘んだポップコーンを自分の口の中に押し込む。
「ん。そう。誰が持ってるのか。そして、ここ最近所有者が移ってるのか。そのあたりを知りたいんだ。できるかな」
イザの手にある琥珀色した液体に浮かぶ氷が、カランという心地よい音をたてて崩れた。
ディンゴは手のひらについた塩を、舌で舐めつつ。
「んー……それ自体は、簡単にできるよ。登記所のデータベースにアクセスすれば、一発だ」
「よかった。すぐに頼むよ。それと……こっちは、ちょっとやっかいな相談なんだけど」
そう前置きをしたものの、どこから話そうかと思案するようにグラスを揺らしてウィスキーをゆっくりと回した後、
「前に圭吾が話してたさ全国民俗学研究委員会について、その後、何かわかったことってあるか?」
イザの問いかけに、ディンゴはストローでイチゴミルクを啜りながら、んーと唸る。
「それが、全然。こっちも、ひっかかってくる情報はなし」
「……そっか」
イザも、氷が解け始めて、少し水っぽくなったウィスキーを一口あおる。
「気になる?」
「ああ……」
「勘?」
「そうだな……そうとしか言い様がないが。どっかの省庁所属だとか言ってたっけ……お前さ、官僚とか政府絡みでコネとかねぇの?」
イザの言葉に、ディンゴはケラケラと笑う。
「あるわけないじゃん。そういうイザこそ、どーなんだよ」
「それがさー……ないこともないんだけど」
今度はイザが唸る。
「誰……?」
言ったあと、ディンゴは、ああ……と、呟いた。一人、思い当たる人物がある。
「もしかして……ユージ?」
久しぶりに耳にした懐かしい名に、イザは苦笑で応える。
「そう。そのユージ。中立雄治(なかだて ゆうじ)。どうにかして、あいつと話したいと思うんだ……」
それが、ディンゴに相談をもちかけた本題だった。
「今、どこにいるんだっけ。ユージ」
ディンゴの言葉に、イザは、ん?と笑ってみせた。
「あいつは、7年も前から、ずーっと同じ所にいるよ。ああ、実際には、判決が出て拘置所から移されてからだから、6年弱か…」
グラスに半分ほど残っていたウィスキーを、イザは一気に飲み干した。喉を滑り落ちる熱さを逃がすように、小さく息を吐くと、呟いた。
「府中刑務所、にさ」
「そっか……もう、7年になるんだ。あの事件から……」
「ああ。早いもんだ……」
コトリと、空になったグラスを置く音が響く。
「あいつが出てくるまで、俺は、あと何年、この街で待っていればいいんだろうな」
最後に会ったときにユージと交わした約束を思い出す。
待っているから。この街で。あんたが出てくるまで、待っているから。
出てきたら、また一緒に、面白い事やらかそう。
そのイザの言葉に、ユージは静かに、穏やかな微笑みで答え、行ってしまった。
彼はまだ、あのときの言葉を覚えているだろうか。
会いたい……とは思う。しかし、数々の犯罪行為を繰り返してきた自分が、刑務所に面会にいくことなど、自殺行為に等しい。
ただ。ユージに定期的に面会している知り合いを通して、彼の様子を知ることはできた。真面目な彼らしく、模範囚として、今も元気で過ごしているのだという話だ。
「それで。どうやって、ユージに話を聞くんだよ。誰かに頼むにしたって、当然、面会中はずっと監視がつくんだろうしさ。話、聞かれちゃまずいんじゃないの?」
ディンゴの言葉が、内に沈んでいたイザの意識を、外へと引き戻す。
「ああ。それで、考え付いたことがあるんだけどさ」
何?と、わずかに首をかしげて訊ねるディンゴに、イザは。
「ちょっと、むぼーなこと」
悪巧みを考え付いた子供のように、くすくすと小さく笑んだ。
そして、頭のなかにある面会計画をディンゴに話す。それを聞いたディンゴは、眉間に皺を寄せた。
「……よく、考え付くなぁ。そんなこと」
「無理?」
「いや……技術的には、できると、思う。でも……誰が面会に行くの。イザは当然駄目だし、圭吾も警察当局に目をつけられたらマズイんでしょ? 僕は同時進行で色々しなきゃいけないから行けないし……」
「それについては、もう頼んである」
「誰?」
「警察にマークされてなくて。しかも、ユージと面会しても違和感なさそうな奴」
「だから、誰だよ」
にやっとイザは笑った。
「ハルカ、だよ」
「ハルカ!? ……よく、OKしたなぁ。そんな危ないこと」
もしかして、たらし込んだの?という素直なディンゴの問いに、イザは「バーカ。んなんじゃねぇよ」と、ディンゴの足を蹴るのだった。



「ンゴー ハツ コーエイ パングヤウ スヨーング チエンガーウ ネイ ホーンホー?」
ここは、ディンゴの自宅リビング。ソファに浅く腰かけて、ハルカはイザから渡されたカタカナと漢字が羅列されたペーパーと睨めっこしていた。眉間に深い皺をよせ、ぼそぼそとペーパーを読みあげる。
その横で、イザが容赦なく指摘を浴びせた。
「違う、そうじゃなくて。ここの発音は、こんな感じ。我係イ巨朋友。想 請教 你 、好唔好?」
「こう? スヨング チエンガーウ ネイ ホウンホウ」
「請教(ツィエング ガーウ)って言える?」
「……ツエンガーウ」
「うーん………まぁ、いいか。なんとなく、意味わかるし。んじゃ次」
ペーパーに目を落としながら、うー、とハルカの眉間の皺がますます深くなる。
イザが計画した面会方法は、こうだ。
香港生まれのイザの母語は、広東語。もっとも、12歳で日本に来て以来一度も故郷には戻っていないので、今となっては頭の中で考え事をするのにもすっかり日本語だけになって久しいが。それでも、多言語が飛び交うテマでは、広東語に触れる機会も多く、未だネイティブスピーカーといえるだけの語学力は保っている。
一方、ユージも、刑務所生活で許される数少ない楽しみとして、貴重な自由時間を本を読んだり、新しい知識を身につける勉強をしたりして過ごしているらしい。広東語の勉強も、その一つとして随分前から取り組んでいることを、面会に行った者から聞いていた。元々、留学経験があり英語と北京語は不自由なく操れていた。頭脳明晰で勤勉な彼のこと、広東語ももう既に相当なレベルまで達していることは想像に難くない。
そこで、イザとユージ、双方が喋れて、しかもそれほどメジャーではないこの言語を、利用しようと考えたのだ。
具体的には、面会者のハルカが予めイザが作っておいた広東語の質問事項を暗記して、ユージに伝える。はじめは怪訝な顔されるだろうが頭のいい彼は、こちらの意図に気づき、広東語で答えを返してくれることだろう。その様子を、ディンゴが刑務所の監視カメラ映像から拾ってきて、イザが翻訳する。一方、刑務所の監視カメラの映像データについては、本来の会話内容が残らないように、事前に用意する別の会話、当たり障りのない普通の会話を上書きして、こっそりと刑務所内のデータを書き換えておく。すると、一見、ユージを昔の友達が尋ねてきて、他愛もない話をして帰って行った…そういう記録だけが残るはずだ。
この計画で一番重要なこと……それは、質問の意図が正確に伝わるように、ハルカが正しい広東語の発音を暗記することだった。
「あー……もう駄目ー。頭、パンクしそー」
広東語の知識がないどころか、今まで耳にしたことすらなかったハルカは、もうやだーというように万歳をしてソファに深くもたれた。
「わけわかんないー。頭の中、カタカナがグルグル」
疲弊した頭を休めようと、目を閉じて、コメカミをぐりぐりと指で揉む。
「頑張ってくれ。ハルカに、かかってんだからさ」
苦笑交じりに笑うイザに、ハルカはウンウンと頷きながらも。
「わかってはいるんだけどさ。思っていた以上に難しいわねーっ。聞いたこともない言葉、覚えるって。……しかも、発音、難しすぎ。何、セイチョーって」
声調とは、中国語独特の発声のことだ。同じ発音にも、高音、低音、途中でアクセントが入るなど基本的に4つの音パターンがあり、声調が変わると、同じ発音でもまったく別の意味の言葉になってしまう。
「慣れれば、難しくもないんだけど……」
「そりゃそうでしょ。あんたは、物心つく前に自然と覚えたんでしょうから」
それを言われると反論もできなくなる。イザは、ペーパーをテーブルに置いて、
「ちょっと休憩にしようか」
といって、テーブルに置いてあったタバコとジッポを手に取り、一本咥えると火をつけて、美味そうに煙を一筋吐き出した。
「わーい。休憩したら、今覚えたことも、ぜーんぶ頭から飛んでいきそうだけど」
諸手を挙げて喜ぶハルカの目が、何とはなしに、傍らにいるジャムに向けられる。ジャムは、ハルカが広東語の暗記をしている間ずっと、床に敷かれた絨毯にペタンとすわり、家から持ってきたらしい絵本を読んで遊んでいた。
「……その子って、イザの子、なのよね……?」
初めてジャムを目にし、イザの子だと紹介されたときには驚いたものだったが、未だにこのいかにも無責任そうなイザに、子供がいること自体信じられなかった。二人が並んでいると、親子というよりも……イザがどっかから誘拐してきたんじゃないかという錯覚さえ覚えそうなくらいだ。
そういう目で見られることに慣れているのだろう。イザは、ハルカの考えを察したように、軽く苦笑を漏らして、傍らにいるジャムの頭を撫でた。ジャムは、何?といわんばかりにイザを見上げる。
「そうだよ。俺の子。もっとも……本当に血が繋がってんのかどうかは、怪しいけど」
「それ、どういう。……え? 結婚してんじゃないの?」
イザが笑う。
「してないしてない。結婚できるような人間じゃないし。ジャムは……昔、俺がよく使ってた飲み屋の前に捨てられてたんだ。俺の子だから、俺に渡して。あとよろしく、っていう手紙と一緒に」
正確には、イザのよく使う偽名である、敬一の名前で。『ケイイチへ わたしてください。よろしく』って走り書きのようなメモと一緒に、ダンボールの中に毛布に包まれ寝かされていた。そのときジャムはまだ、生後数日の新生児だった。
「ええっ!? ……それじゃ、ジャムちゃんのお母さんって……」
「いまだに、わからない。俺も教えてほしいくらいだ」
「つきあってた彼女くらい、わかるでしょ」
「……んな、10ヶ月も前に関係もったコのことなんて、わかんねーって。心当たりありすぎて……しかも、大体この街の子ばっかだから、出入り激しくて。引っ越されたりすると連絡先すらわかんねぇし」
「………あんたが、とんでもない甲斐性なしだってことは、わかったわ」
それでも。この家庭的という言葉とはまったく縁のなさそうなイザが、3歳のジャムをここまで一人で育てるのは、生半可な苦労ではなかっただろうことはハルカにも伺い知れた。イザはジャムを、べたべたと無闇に可愛がることはしない。しかし、ジャムがもぞもぞしだすとすぐにトイレへ連れていき、甘えてくると抱き上げ、ぐずり出すと様子を見に行く。見ていないようでも常に目の端に置いておいて必要な手助けをしていた。それは、あまりに自然な動作であるため普段は取り立てて目立つことではないが、改めて考えてみると、イザとジャムの間にある確かな絆が感じられるのだった。素直に、えらいなーと、ハルカは思う。そんなハルカの感心を知ってか知らずか。イザは、ペーパーを丸めて、ぼんやりとジャムを眺めていたハルカの頭を小突く。
「はい。休憩終了。続きいくぞ」
「えー……」
暗記から開放されて軽くなっていたコメカミのコリが、また舞い戻ってきたような感覚を覚え、ぐりぐりと指で解す。
でも。
「仕方ないか。千里のためだっ」
消えてしまった友人の名を口にして、気合を入れなおすハルカだった。

 

 

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