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ハルカの広東語が何とか様になってきたころ。
ディンゴが、トレーに3人分の珈琲と、ジャム用にホットミルクを載せて運んできた。
「なんとなく、それっぽく聞こえるように、なってきたじゃん」
「んー。まぁまぁな。意味も大体、聞いててわかるくらいにはなってきた。はじめは、どうなることかと思ったけど……」
イザがトレーの上のマグカップを手にとって、珈琲に口をつけると、ハルカはソファに力なく倒れこむように横になり。
「今日はもう、これくらいにしましょうよ。私、頑張ったわよ。かなり。うん。語学なんて、大学の1年のときに英語の単位が取れなくて泣かされた時以来。まさか、大人になってまで悩まされるなんて思わなかったー」
そうは言いながらも、先ほどまで、イザのスパルタともいえる教え方に逃げ出しもせず食らいついていたハルカのことを思い出し、ディンゴは不思議そうに訊ねた。
「嫌なら、やめてもいいのに。他の方法もないわけじゃないし……」
「………」
ハルカは、がばっと起き上がると、テーブルに置かれたマグカップをとって、こくりと一口珈琲を飲む。
「やるわよ。やらせてよ。……私も、何か役に立ちたいの。千里のために。他の消えたテマの人のことや……申し訳ないけど、貴方のお母さんのことは、正直言って、私には関係ないわ。けど、千里のことは……諦めたくない。私があの子のことを諦めてしまったら、一体誰があの子を取り戻せるっていうの。可能性があるのかどうかすら判らない希望を持って、ただ待つよりも……少しでも自分にできることをしたいの」
淀みなく言うハルカの言葉に、ディンゴも隣に腰を下ろすと、頷いた。
「……うん。そうだね。何が役に立つのかすら判らないけれど。今、できる限りのことを、やるしかないよね」
二人は、大切な人を、この神隠し事件で消されている。じゃあ、俺は……。
イザは二人の会話を聞きながら、何気なく、傍らでホットミルクを一生懸命飲んでいるジャムに視線を向けた。
(もし、こいつが、消えてしまったら)
珈琲の香りが、疲れて鈍りかけていた頭を、しゃきっとさせてくれる。
ジャムがいなくなるかもしれない……少しでもそう考えることは、とてつもない恐怖だった。いっそのこと、テマを離れた方がいいのかもしれない、とさえ思う。今のところ、神隠し事件の大部分はテマで起こっている。もしかしたら、テマから離れれば、この一連の事件とも完全に無縁でいられるのかもしれない。
けれど。
(消えた人間が、どういう理由で選別されてるのか。無差別なのか。理由があるのか。それすら、今のところ判らない……もしかしたら、俺たちは既に、消える方の選別に入っているのかもしれない。そうなれば)
テマから離れ、どこかに引っ越したところで、もう手遅れだろう。
情報が少なすぎることが、苛立ちと不安を生む。敵が見えない分、それは無制限に大きくなっていく。
情報が、ほしい……どんな、些細なことでも。
相手がどういう物なのか掴めれば、それに対処する方法も考えることができる。
まずは、情報。
「そうだ。ディンゴ。前に頼んでた不動産がらみのこと。わかったか?」
イザに言われて、ディンゴは、ああ……と頷くと、傍らに置いてあった愛用のノートPCを広げてテーブルに置いた。
「わかったよ。素のデータだけだと判りにくいと思ったから、ちょっと加工してみた。見てみて。これは、テマ一帯の公図だよ」
ハルカとイザの二人も、両脇からディンゴのPCを覗き込む。
ディスプレイには、鳥瞰でテマ一帯を上から見下ろした図が映し出されていた。建物などは一切ない、ただ土地の境界のみを輪郭で表した図だ。
「公図っていうのは、現実の土地の境界とは必ずしも一致はしてないものなんだけど、でもテマ一帯はそれほど古い土地でもないから、概ね一致してるものと考えていいと思う。今、ランドマークだけ表示するね」
ディンゴがキーボードを操作すると、駅や、大通り、ハルカの病院など地図の位置関係を理解するための指標となる建物が公図上に重ねて現れる。
「イザが調べてほしいって言ったこと。調べてみて、面白いことがわかったんだ。見てて」
ぽんとディンゴがキーボードを押すと、公図の4分の1ほどが黄色く染まった。しかも、駅と大通りを中心とする同心円状に、その黄色い部分がとりわけ集中している。
「何これ」
「これはね……国有地だよ」
「こくゆーち?」
不思議そうに聞き返すハルカに、ディンゴは頷いてみせた。
「うん。テマの、特に中心部。今はまだ、飛び地になってる部分も多いけれど、この黄色いところは全て国有地だ。個人の所有する土地じゃなくて、国が所有している土地だってことだよ」
「え……なんで」
「そんなこと僕もわからない。以前は、こんなんじゃなかった。だって、ありえないじゃん? 国有地の上に、違法風俗の店とかがバンバン建ってる現状なんて。この地域一体が昔から国有地だとしたら、テマなんて街ができあがるはずがないんだ。かといって、国がこの一体を地上げしてるなんていう話も聞いたことがない。僕、占有屋なんてやってる絡みで、不動産業界の知り合いは多いんだけどね」
ディスプレイに映し出された、黄色い部分を睨み付け、イザは思い出していた。投資ファンドのマカベの話と、仕事先のクラブの女オーナーの言葉。
『……妙なの。ここの土地、ずっと前から国有地ってことになってて』
「……そうか。そういうことなのか」
イザの呟きを、ディンゴが聞き漏らさず訊ね返す。
「何か気づいた?」
「ああ。今まで俺、神隠し事件で消されてる人間って、この街の犯罪者や不法移民たちばかりだと思ってた」
「う、うん……そうだよね。イザの知り合いの運び屋は、前科があったし。俺の母さんは不法移民だ。他にも、消えたと噂になってるのって、そういう人間が多いように感じる」
ディンゴの言葉に頷くと、イザは切り出した。
「でも、どうしてもその括りでは、当てはまらない人間がいるのも確かだ。たとえば、千里。彼女は、ちゃんと日本国籍を持つ日本人だし、もちろん前科もない。テマも勤務先があるっていうだけで、住んでるわけじゃない」
こくこくと、ハルカが頷く。
「そう。そのとおり」
「じゃあ。何で、千里は消されたんだ? 千里は、何で消えるべき対象にされたんだ?」
「え……」
ハルカは応えられず、口をつぐむ。
「千里は、外の人間なのに。なんで、あえて、こんな物騒なテマの病院なんかに勤務することにしたって言ってたっけ?」
「え……それは。あ、そうだ。元々、彼女、お爺さんがこの辺りの出身なんだって。何代か前には、この近くに家があったの、って話してたの覚えてる。でも、それって、ここがテマなんて呼ばれる物騒な地帯になる、ずっと前の話だし」
この話は、以前イザたちにも何気なく話したことのある話だ。なんで、あえてテマの病院に就職したの?という話題になり、ハルカは成績が悪くて今の病院しか内定が取れなかったことを渋々暴露したものだった。一方、千里は大学で奨学金を貰えるほど優秀だったらしい。それが何故人気のないテマの病院に勤務することを決めたのか。それは、小さい頃祖父母の家がこの地域にあり、ここの老人医療に携わりたいという思いを昔から持っていたかららしい。
「たぶん。鍵は、そこだよ。千里の実家は、テマのどこか、おそらく表通りあたりに土地を持っていた。今は、たぶん、千里の祖父か父親の名義になってるんだろうな」
でも、それが何よ、という疑問がハルカの顔に浮かぶ。イザは、軽く苦笑を浮かべると。
「順を追って説明していくよ。まず、このテマをどうしても再開発したい連中がいた。ここの土地を証券化して売り払い、莫大な資金を集めて再開発し、さらに利潤を得ようとしてる奴ら」
これは、マカベから聞いた話だ。
「それは、推測でしかないが、この国の経済界が大きく噛んでる。大企業も何社も絡んでるだろうな。ただ、その計画を実行に移すには、この地域を地上げして土地を取得しなければならない。けれど……再開発事業が今まで何度も挫折してきた原因は、ここだ。地権者から土地を借りて建物を建てた奴が、さらに他人に貸して、そいつがさらに他人に貸し…って感じで、間に何人も絡んでる複雑な権利関係、そういうテナントに入ってる奴らを守る裏組織や犯罪者、外国人連中が地上げを強固に拒んできた」
「うん。そのとおり。だから、テマはいつまでも、未開発なままで。小さなテナントビルとか、古いアパートとか、そういうものが多くて。地価が極端に安いから、移民たちが多く住み着いたんだ」
と、ディンゴ。
「地上げを邪魔するやつら。そいつらを消しさえすれば、再開発は現実的になる」
「それで、消されたの? その……邪魔する人たちが」
イザは頷いた。
「そう。邪魔になるのは、簡単に分けると、ここらに住み着く犯罪者連中、不法移民、それに地権者だ。俺は今までずっと、神隠しで消されているのは、前科者や警察に目をつけられた奴らばかりだと思っていた。街を裏で牛耳ってる奴らが消え、街が不安に陥れられれば……住民の不安が外に向けられ、暴動なんかが起こってくる。既に小競り合い程度なら、あちこちで頻発してるよな。それがさらに大きくなって警察当局と住民が真正面からぶつかればれば、治安維持の名目で、当局や入管が一斉取締りを始める。そうなれば、沢山の不法移民が捕まえれられるだろう。移民を一掃するチャンス到来ってわけだ。それを、狙ってるんじゃないかって」
その瞬間は、もう間近に迫っているという危機感を、街に出ることの多いイザは感じている。
「でも。奴らの目的はそれだけじゃなかったんだ。たぶん、一番の目的。それが、地権者を消すこと」
イザは、ディスプレイに黄色く表示された部分を指で指し示す。現在、国有地となっている部分を。
「ディンゴ。土地の所有者が死んだり行方不明になったりして、しかもそれを相続する人間もいない場合、その土地は誰のものになる?」
「え……」
突然問われて、一瞬わけがわからないという顔をしたディンゴだったが、あ、という声ととも。
「……そうだ。相続する人間がいなければ、土地は国庫に入る。つまり、国の持ち物になるんだ」
「そう。……この黄色くなってる部分」
イザは、指で黄色く表示されているところを円を描くように示し、
「ここは、そうやって国有地にされたんじゃないか。つまり、元々このあたりの土地を持ってた人間を、血の繋がりのある親族諸共例の神隠しで消してしまって、所有者不明ってことで国有化した。ここじゃ、ほとんどの貸しビルが又貸しに又貸しを重ねてる。登記上の土地所有者が消えたところで、おそらく借りてる人間たちはすぐには気づかない。でも、国有地にしてしまえば、土地を使ってる人間を追い出すことは法律上簡単だ。いつの間にか、不法占拠状態になってるわけだしな」
「そうか……全ての現象は繋がってるんだ。土地の所有者を消し、国有地化して売り払い、再開発する。ついでに、不法移民とか犯罪者も消えてくれれば、物事はさらにやりやすくなる……て感じ? 莫大な利益を生むうえ、汚点になってた犯罪都市も消えて一石二鳥じゃん」
「そういうこと。おそらく、千里は、土地を所有してた親族の繋がりで消されたんだろう。千里が残ってると、千里に相続されてしまって国有化できないからな」
二人の話を聞いて、ハルカは、イライラと頭を乱暴にかく。
「あー、もう。わけわかんないっ。難しすぎるのよ、あんたたちの話は。……でも、千里が、そういう誰か知らないけど身勝手な計画のために消えさせられたってのは、わかった。……なにそれ。一般市民を馬鹿にすんじゃないわよって感じ」
憤ってマグカップを乱暴にテーブルに置くハルカに、イザは苦笑を返しつつ。
「あくまで、仮説に仮説を重ねた推測だけどね。……ただ、大きく外れてるってこともないだろ。……さてと」
立ち上がって軽く伸びをして、笑う。
「どーやって、ぶっ潰してやろうかな。この馬鹿げた壮大な計画」
「……うーわ、イザ、いい笑顔してるし。楽しそうだよね、こういうとき」
ディンゴは、やれやれと小さくため息をつくのだった。
「そして、こういうときイザが思いつくことって、大抵ろくでもないことなんだ」
「……酷い言われようだな、俺」
そんなイザとディンゴの会話を遮るように、あのさあのさ、と両手で膝をパタパタ叩きながらハルカが話題を変える。
「ずっと気になってたんだけど。……私が面会に行くことになってる、ユージって人……何者なの?」
「……そんな基本的なこと、知らずに、今までイザのスパルタ受けてたの……」
ディンゴの呆れた声を遮って、イザは静かに応える。
「……悪い。言ってなかったっけ。すっかり、忘れてた。ユージ……中立雄治(なかだてゆうじ)は、ずっと前に、俺がとある事件に関わったときに知り合った友人だ。その事件の絡みで今は収監されてるけど、当時、ユージは厚生労働省のキャリア官僚だった。その父親は、中立幸一郎。元・官房長官だよ。中立派っていう大きな派閥の親分さ。次期、総理は間違いないって言われてた。ユージは、その跡取りだったんだ」
自分で話しながら、全て過去形であることに、イザはそこはかとない寂しさを感じて、苦笑を深くした。
「中立派は、ユージたちが捕まって以来、すっかりバラバラになって影響力はなくなったって思われてる。でも……あいつらはまだ、政権を諦めちゃいない。今は、ひっそりと身を隠して虎視眈々とチャンスを狙ってるだけだ。今回は、あいつらの政界や中央への情報網を利用させてもらう」
「……ふぅん。なんだか、すごい人なのね。そのユージって人」
なんだか、色々と想像を膨らませているらしいハルカを見て、イザは笑った。
「肩書きだけ聞くと、すごく聞こえるけどな。んな、怖い人間でもなんでもないから」
「じゃあ、どんな人?」
うーん、とイザは悩む。悩んだあげく、ぽつりと呟いたのは。
「……春の陽だまりみたいな奴?」
自分では的確に表現したつもりだったが。
「……。ますます、想像できなくなってきたわ」
ぐりぐりと、コメカミを指で押す、今日何度目か判らない動作をして、ハルカは唸るのだった。

 

 

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