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その日。
ハルカは一人、府中刑務所の大きな正門の前にいた。
「うわー。ここが刑務所なのね……」
正門脇にいる仏頂面の刑務官に面会を申し出ると、彼は何も言わずに、脇の進入口を開け、真っ直ぐ進むようにと手で示す。
おっかなびっくり、ハルカは扉をくぐり、刑務所の敷地内に入った。中に入ると、すぐに『面会者はこちら』という立て看板が目に入り、その指示通りに歩いていくと、待合室と書かれた部屋にたどり着いた。
部屋の中には、自分の他にも既に何組かの面会希望者がいる。
係員に渡された面会申込書に記入した後、番号札を渡され、あとはこのまま待つように言われた。
面会申込者の、面会相手のとの関係の欄には留学時代の大学の友人と書いた。以前であれば、親族以外との面会は実質的に禁止されていたらしいが、受刑者に対する人権云々で国際批判が相次いだらしく、最近は身分証の提示程度で比較的簡単に親族以外も面会が許されるようになってきている。もっとも、面会が許されても、受刑者側が拒否すれば、面会はできないのだが。
ユージは、面会を承諾してくれるだろうか。
ハルカは、心臓が大きく鼓動を打つのを感じながら、じっと待合室で待った。同じ部屋で待つ他の面会希望者たちが、呼ばれては別室へ消えていき、部屋で待つのが自分ひとりになった後しばらくしてから、ようやくハルカの番号が呼ばれる。
こちらへ、と刑務官に先導されて、ようやくほっと安堵の息を漏らしながら、ハルカはその後へついていった。
面会室に入ると、中はテレビでもお馴染みな、5つほどのブースに区切られていた。ブースの真ん中は透明なアクリル板で仕切られており、顔の辺りに開いている声のみ通る小さな穴だけが受刑者側と通じる唯一のものだった。
刑務官に手前から3つ目のブースで待つように指示され、ハルカはブースに置かれたパイプ椅子に腰掛けた。そして、相手が連れられてくるのを待つ。
収監される前の顔写真なら見たことがある。それでも、初対面の、しかも相手は犯罪者だ。ハルカの胸はさらに、動悸が大きくなる一方だった。
緊張のあまり、手ににじむ汗に手のひらを擦り合わせていたところ、アクリル板の向こう側のドアが開き、制服姿の刑務官につきそわれて、一人の男がブースへと入ってきた。他の受刑者と同様、作業着のような灰色のジャンパーに、灰色のズボンを着ている。
さらさらとした少し明るめの黒髪。今は、神妙にうつむき加減にしている目元は、笑うときっととてもチャーミングなのだろうなと思われる整った形をしていた。
以前見た写真からは、少し痩せたように見えたが、それでも間違いない。
この人が、中立雄治、その人だ。
言葉を発することも忘れて、ぼーっと彼に見入るハルカに、ユージは、どこか困ったような笑みを浮かべた。そして、静かに向かい席に座ると。穏やかな声音で喋りだす。
「こんにちは」
声をかけられて、ようやくハルカは、はっと我に返る。
「あ、え、えと…こ…」
普通に日本語を口にしようとして、寸前でここに来た目的を思い出した。イザの睨んだ顔が頭に浮かんで、咄嗟に特訓のことを思い出したといってもいい。
ごくん、と一つ、生唾を飲み込む。
そして声を出そうとするが、掠れて上手く言葉が出ない。それでも、無理やりに声を絞り出そうとした。面会時間には制限がある。手間取っている場合ではない。
ハルカが、あたふたしている間、ユージは怪訝そうな目をしながらも、穏やかな笑みのまま待っていた。
「あー……我 係 巨 朋友」【私は彼の友達です】
突然の広東語に、ユージの表情に、さらに怪訝の色が浮かぶ。
しかし、ハルカは彼の様子に合わせて言葉を選ぶ余裕などない。第一、ほとんど、自分が話している広東語の意味すらわかっていないのだ。ただ、イザに言われた順番どおりに、暗記したものを口にするだけ。
「想 請教?  好唔好?」【教えてください。いいですか?】
(お願い、答えて…)
ハルカは心の中で、必死に祈った。ユージは、彼女の…いや、イザの意図を理解してくれるだろうか。質問に答えて、協力してくれるだろうか。
ユージは、すっと視線をあげて、虚空を見た。そして、再びハルカへと視線を戻すと、にこりと。邪気なく笑む。
「可以。你 想問 乜 野?」【いいですよ。何が訊きたいんですか?】
(答えたっ!)
ぱっと、ハルカの表情が明るくなる。ユージが何と答えたのか、ハルカには皆目検討はつかなかった。しかし、これでいいのだ。二人の面会の様子は、全て刑務所の監視カメラに記録されている。それをハッキングすることで、イザやディンゴたちも、この面会の様子を見ているはずだ。会話の内容を検証することはイザに任せればいい。自分は、ただ与えられた役割……質問事項をユージにぶつけるという役割だけを果たせばいい。
ハルカが発する質問に、ユージは滑らかな広東語で、時には即答し、時には少し視線をめぐらせた後、言葉を選ぶように会話を紡いでいった。
そうやって小一時間ほど、奇妙な会話を続けたあと、ハルカは自分の指を折って、あらかじめ予定していた質問は全て訊いたことを確認した後。
「多謝。 你 嘅 協助。」【お力になっていただき、ありがとうございました】
最後の言葉を口にする。これで、ハルカが覚えてきた広東語は全てだ。
ユージはハルカの言葉に、穏やかな笑みを返すと。
「唔使 多謝」【どういたしまして】
と一言言い、席を立った。そして、ハルカを見下ろし、
「お話できて、嬉しかったです。また、お会いできることを願っています」
と日本語で言うと、背を向け、監視役の刑務官につれられてドアへと足を向けた。
しかし、ドアを出る手前で足を止め、ハルカをもう一度振り返る。そして。
もう一言、広東語で何かを言うと、ドアの向こうへと消えていった。
ユージがいなくなった後も、ハルカは、ぼんやりと椅子に座ったまま立てないでいた。極度の緊張が解けた安堵と疲れと…なんだかよくわからない感情のまま座っていた。ようやく係員に促されて面会室から出たときには、外はすっかり夕暮れに包まれ真っ赤な太陽が地平に落ちようとしている時間となっていた。



自宅へ真っ直ぐ戻ろうかとも思った。今すぐ自分のベッドに倒れこみたい気分だった。けれど、一応会って報告しておいた方がいいだろうと思いなおし、ハルカはテマにあるディンゴの自宅へと向かう。
ドアを叩き、その前で待っていると、勢いよくドアが開けられ中から出てきたディンゴに抱きしめられた。
「おっかえりー。ハルカ、お疲れ様! 成功、成功、大成功! ほんと、ご苦労様っ」
満面の笑みで労われると、少し疲れも吹っ飛んだような気がして、ハルカの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「さ、おいで? 夕飯できてるし。イザと圭吾も来てるしさ」
リビングへいくと、テーブルの上に置かれた数台のノートパソコンの前に、イザが座っていた。その隣に、圭吾も立って、イザのパソコンのディスプレイを覗き込む。
「あ、お疲れさん。会話も、ばっちしやで」
にこにこと言う圭吾。イザが、くるっとパソコンを反転させてディスプレイをハルカに見せる。そこには、先ほどの刑務所での面会の様子が写しだされていた。斜め上から、ユージの顔とハルカの背中が映し出されて、二人の会話が録画されている。
「サンキュな、ハルカ。会話の音声も鮮明に取れた。内容も、期待以上だ。数日中には、翻訳したものをメールで皆に渡すよ」
「そうそう。このままの画像を刑務所に残しておくと、もし万が一広東語が判る人間が見たら困るから。こんな風に音声だけ塗り替えてみたよ」
ディンゴが、もう一台のパソコンに写る、面会の映像を見せてくれた。確かに、映像は同じものだが、音声が違っている。別の会話に刷り変えられていた。
「ハルカとユージの声を元にして、会話を作り変えたんだ。内容は、久しぶりの再会を喜ぶ大学時代の友人同士っていう設定。もう、こっちの画像で刑務所の監視データを上書きしておいた。よーく見ると、時々微妙に口の動きとズレルことがあるんだけどね。そこまで判る奴なんて、いないでしょ」
ころころとディンゴは笑って付け加える。
「はぁ……何にしろ、私の役目は終わりー」
ぽすっとソファに腰を沈めると。
「さー、失った体力取り戻すために、食うわよー。明日は仕事なんだからーっ。肉はないの? 肉は!」
キッチンに立つサカキに、きらきらとした目線を向ける。
「はいはい。今日は焼肉な。ハルカちゃんには、おごり。さーて。準備できたから、邪魔なパソコンどけろ、お前ら。飯だ、飯ー」
両手の平にそれぞれ掲げた大皿に肉やら野菜やらを山盛り乗せて持ってくると、サカキが夕飯の支度を始める。
パソコンをソファの上に避難させて、まだ面会場面を食い入るように見ていたイザの背後から、圭吾が覗き込んだ。
「ユージ……最後に、何て言うとったん?」
圭吾が、ユージが去り際言った言葉のことを言っていることはイザにもすぐわかった。
小さく苦笑のような、笑みを浮かべて、イザはディスプレイから目を離すことなく答える。
「会いたい。君はまだ、変わらず、あそこにいるんだね…って、そんな意味」
「お前に向けた言葉やな」
「……そうだな」
バタンと、イザはディスプレイを閉じる。
(それは、俺も同じ)
「ユージが出てきたらさ」
にっこり笑って、圭吾を見る。
「また、一緒に暴れようぜ」



ユージから聞き出したことをまとめると、こうだ。
まず、こちらから訊いた事は、政府の中央とコンタクトをとる方法、それに、全国民俗学研究委員会や、今回の神隠し事件に関して知ってることを教えて欲しい、ということだった。まず第一の質問。中央とのコンタクト方法については。
「君たちは、知ってるかな。ホットラインというのを。かつての冷戦時代に、有事が起こった際トップ同士がすぐに連絡を取り合えるようにって、アメリカのホワイトハウスにある大統領執務室と日本の首相官邸との間に直通の電話回線が引かれているんだ。冷戦もとっくに終わって、通信技術の発達した今となっては無用の長物だけれど、一度設置したものはよほどの理由がないと外交上取り外すことができない。この電話回線は、今も生きているはずだ。これをジャックしてしまえば、首相官邸に直接会話を持ちかけることができる」
次の質問。全国民俗学研究委員会と神隠し事件について。
「人が消える事件について、実は何年も前に一度聞いたことがある。確か、どこかの刑務所かどこかじゃなかったかな。すぐに話が立ち消えてしまったから、隠蔽されたのかもしれない。それから全国民俗学研究委員会についてだけれど、詳しくはわからないが、そんな名前を聞いたことはある。管轄はおそらく、気象庁。それについては、うちの秘書に詳しく調べさせる。秘書の本庄を訪ねてほしい。中立派の事務所は地元に残っている。ひっそりとだけどね」

以上のことを、翻訳してイザは圭吾たちにメールで回した。
『へぇ……気象庁? 文部科学省でも、宮内庁でもなく? 気象庁?』
「そう。確かにそう言ってた。明日にでも、ユージの地元に行きたいんだけど。俺、明日からちょっと外せない仕事が入っててさ」
携帯で話しながら、イザは自分の仕事の準備をしていた。
『ワイも、明日は地方でやる学会のシンポジウムで研究発表せなあかんから、外せへんなぁ』
「ハルカもしばらく仕事の休み取れないらしいし。ディンゴも用事があるんだってさ」
『じゃあ、どないする? 誰か空くまで延ばすか?」
「いや………暇な奴いるよな」
『へ……?』
「……セイ」
『おおっ! ……存在自体忘れとった。でも、大丈夫か? あいつ一人で』
「やってもらうしかないな」
『それで、事務所の場所って、わかっとんの?』
「いや、それがさぁ…ユージもはっきり言わなかったし。どうやら、あの事件以来、裏に潜ってるみたいで、いくら探しても出てこない。これは……地元に行って、聞き込みでもするしかないかもな」
『……おいおい。大丈夫なんかぁ、それ、セイ一人で』
到底無理だろ、と言う空気が、圭吾の口調から漂ってくる。それは、イザも同感だったが。
嘆息ひとつ。
「まぁ、やれるとこまででいいから、やってもらおう。俺も、仕事が一段落つきしだい、現地に向かうから」

 

 

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