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『どうしよう、どうしよう、イザ……』
携帯電話ごしに伝わってくるディンゴの泣いているような声。その取り乱した様子に、イザは内心驚きを感じていた。
ディンゴとは10代の頃に知り合って以来、いままで一緒に様々な悪いこともやってきた仲だ。しかし、ここまで狼狽した声を彼から聞くのは始めてだった。
「落ち着けよ。どうしたんだ、ディンゴ」
『イザ、……あの。あのさっ』
ディンゴは、携帯の向こう側で、声を詰まらせながらも懸命に伝えようとする。
『いなくなったんだ。いなくなっちゃったんだよ』
いなくなった。その言葉に、イザは、背中が泡立つような嫌な感覚を覚えた。頭の中に思い浮かんだのは、一連の神隠し事件のこと。
「いなくなったって、誰がっ」
嫌な予感が的中しないことを、胸中で願っていたが。
『母さんが………! 知らない間に、消えちゃったんだ!』
予感は的中してしまった。
新たな、神隠しの犠牲者。しかも、それはディンゴ一家にとって何より大事な家族が。
「……わかった。すぐ行く」
ディンゴの居場所を聞くと、すぐに携帯電話を切って、助手席に置かれた鞄の上に投げ捨
てた。そして、車を近くでUターンさせ、テマへと進路を変える。
車内には嫌な沈黙が漂う。
「ど、どうしたの……?」
しばらく。15分ほど経ってから、ようやくセイは後部座席から躊躇いがちに顔を出し、イザに尋ねた。
「ああ。……ディンゴの母親が消えた。お前も、覚えてるよな? 」
「え………?」
言われて、セイは不思議そうな顔をした。その様子をバックミラーから眺めていた、イザは苦笑を浮かべる。
「……思い出せないだろ」
う、うん。と、頷くセイ。
「……そうなんだ。俺も、ディンゴに言われたとき、すぐには思い出せなかった。母親と言われて、ディンゴに母親なんていたっけ?って真っ先に思ったくらいで。ようやく思い出してきたんだ……。何年も前からディンゴんちに行く度に会ってたのに、おかしいよな。お前だって、ちょっと前に、鍋しただろ。ディンゴんちで。そんとき一緒にいたはずだよ。車椅子の中年の女性。見ただろ?」
「……………ああ。あ……あれ? 何でだろう。そういわれてみると、そんな人がいたような……」
セイは頭を抱えた。イザに指摘されてみると、おぼろげながら記憶として頭の中に浮かんでくる像がある。しかし、その記憶は酷く曖昧で、今にも消えてしまいそうだ。
「記憶が消えてしまう……それも、あの神隠し事件の特徴だったよな」
「あ……」
ようやく気づいた。セイたちは、知らないうちに記憶を奪われたのだ。おそらく、ディンゴの母親の姿が消えたのと同時に。彼女を知っていた人間からも、彼女に関する記憶が消えた。
「とりあえず、ディンゴんとこにいくか」



ディンゴは、テマにあるサカキのホストクラブ、その裏にある事務室にいた。事務室とはいっても、4畳半ほどの小さな空間に、スチールデスクが置かれているだけで、その他はクラブで使った小物や衣装などが雑多に置かれている倉庫のような空間だ。
その部屋の隅に、ディンゴはいた。抱えた膝の上に頭を置いて、座り込んでいた。
「ディンゴ。大丈夫か?」
駆けつけたイザが声をかけるものの、ディンゴは膝に頭を埋めて俯いたまま、反応一つしない。そこへ、店からディンゴの様子を見るためにスーツ姿のサカキも戻って来る。どこかイラついたような、けれど心配そうな面持ちで、胸ポケットから煙草を取り出すと咥えて火をつけ、一筋細い煙を吐き出す。
「さっきまで、泣きじゃくって大変だったんだ」
「そうだろうな……。お母さんが、いなくなったって聞いたけど?」
サカキは、煙草の煙を深く吸い込むと、胸の中の鬱屈した思いまで一緒に出すように、ゆっくりと煙を吐いた。スチールデスクの端に浅く腰掛けると、煙草の吸殻が山のようになっているガラスの灰皿の上に、親指で煙草を軽く弾いて灰を落とす。
「ああ。妹弟総出で探してはいるんだが、みつからない。そもそも、家から一人で出れるはずはないんだ」
彼女は車椅子だ。しかも、自分ひとりで車椅子を操作することができない。誰かが連れていかない限り、家の中からいなくなるなんてことはありえないのだ。
「家にいたのは?」
サカキは、顎で、うずくまったままのディンゴを指す。
「こいつと、エリー。エリーはキッチンで夕飯を作ってて、こいつは自室にいた。最後に二人が母さんを見たのは、キッチン横のリビングらしい」
「エリーは?」
「……こいつよりは、よっぽどしっかりしてるよ。今、リカと一緒に警察に捜索願出しに行ってる」
「……そっか」
イザも、煙草を口に咥えると、ジッポで火をつけた。一緒にきたセイが、所在なげに、サカキたちとディンゴを見ているのに気づき、苦笑して煙草の箱を差し出す。
「お前も吸う?」
セイはぶんぶんと、頭を横にふった。
「やめとく」
そのとき、ようやくディンゴが、のっそりと顔をあげた。泣きはらして腫れた目元に充血した目。ひとしきり泣き疲れ、ぼんやりと、目の前にいる兄たちを見やる。そして、ぽつりと呟いた。
「母さん……兄ちゃんとこに行こうとしたんだ……」
「そんなはずはない」
きっぱりと切り捨てるような、サカキの声。おそらく、同じやり取りを、イザたちが来る前にも何度も繰り返したのだろう。
しかし、サカキの声が耳に入らないかのように、ディンゴはぽつぽつと続ける。
「母さん、僕が最後に見たとき、兄ちゃんが家に忘れてった携帯で遊んでた。兄ちゃんに、携帯を届けようと思って、一人で家を出たんだ。それで……」
「ディンゴ」
鋭い声音で、ディンゴの呟きを遮る。
「お前だって、わかってるだろ。母さんは、自力じゃ1メートルだって動けない。それに、隣のキッチンにはエリーだっていたんだ。エリーは、音には人一倍敏感だ。たとえ、母さんが一人で出ていくようなことがあったとしても、エリーが気づかないはずがない」
「じゃあ……」
弾かれたように、ディンゴは立ち上がると、サカキの胸倉を掴んだ。
「じゃあ、なんで母さんはいなくなったんだよ! 母さんは、どこ行ったんだよ!」
ただ、消えてしまった、というだけでは納得ができるはずがない。いなくなったことすら受け入れたくないが、せめて、納得できる理由がほしかった。
サカキの体を揺さぶるディンゴの手を、見かねてイザが止める。
「……やめろって。サカキに当たったって仕方ないだろ」
「だって……」
イザに手を掴まれたまま、振り払う気力もなく。再び、ディンゴの双眸が潤みだす。
「……ディンゴ。お前のせいじゃない」
静かな、言い聞かせるようなサカキの言葉に、ディンゴは唇を噛み締めて俯いた。
「自分がちゃんと母さんを見てたら……なんてこと考えて、自分を責めるな」
俯いたディンゴの顔から、雫が落ちて、床を濡らした。
そのディンゴの肩を優しく叩くと、サカキはイザに向かって済まなそうに言う。
「……俺は店に戻らなきゃならない。店をあがるまで、しばらくこいつのこと、見ててもらえないか」
「ああ。別に、それは。構わないよ?」
「頼む」
灰皿の吸殻の山に自分の吸っていた煙草をもぐりこませるようにして火をけすと、サカキは事務室から出ようと出入り口へ足を向けた。
その足を、
「悔しいんだ……」
ディンゴの呟きが、止める。
「僕、悔しい……」
俯いたままのディンゴの呟きを、今度はサカキは遮らなかった。
「なんで、すぐに気づかなかったんだろう。母さんが、いなくなったこと。なんで……一時的にとはいえ、母さんのこと、忘れてしまってたんだろう。あんなに、あんなに……」
大好きで、大切な人を。
忘れるはずがないのに。
「僕、自分が許せない」
「……ディンゴ。それは、俺たちも同じだ。俺も、シンやリカたちだって。母さんが消えることを防げなかった。それに……お前に言われるまで、やっぱり俺たちも忘れていたんだ。母さんのこと。まるで、記憶が抜け落ちてしまうみたいに」
「お前ら家族でも、そうなのか……」
イザの言葉に、サカキは小さく頷く。
「ああ。まるで。母さんのことに関するシナプスだけが、ばっさり切り取られちまったみたいにな。ディンゴに言われてそのことに気づいた後は、記憶が戻るのにさほど時間はかからなかったが」
そこまでイザに言ったあと、サカキは再びディンゴの肩を掴んだ。今度は、強く。握り締めるように。
「ディンゴ。許せないっていうんなら、俺たちもそうだ。自分のことが許せない。でもな、まずは、母さんを探し出すことが第一だ。そして、もし。母さんの行方不明が誰かの仕業だったとしたら」
サカキは、ディンゴに微笑みかける。
「俺たちは、そいつを許さない」



深夜の都心。
一昔前に話題になった、超高層ビルが集まる複合施設。
有名ブランドや国内外の人気ショップが軒を連ねるショッピングゾーンと、メジャーな企業が各階を埋めるオフィスビル、それに海外資本の大手ホテルや、高級タワーマンションなどが一角に集まっているエリア。
そのタワーマンションの、52階にイザはいた。最上階ではないが、嵌め殺しの大きな窓からは、色とりどりの星を濃縮させてばら撒いたような都内の見事な夜景が見下ろせる。
新富裕層とか言われる、金持ち連中しか住むことの叶わない超高級マンション。一体、一部屋いくらするのか、イザには検討すらつかない。何億という単位であることは、間違いないだろうが。
壁に埋め込まれたセンスのいい間接照明のおかげで、暗めの照明でも不自由はなく、かえって穏やかな雰囲気を部屋全体に醸し出していた。足蹴の短いアイボリーの絨毯が敷かれた広いリビング。
イザは、洗いざらしを適当に撫で付けた髪のまま、ぞんざいにボタンを留めたシャツに借り物のパジャマのズボン、それに裸足といういでたちで、リビングの片隅にあるブルーの照明の当たる水槽の前で、飼われている珍しい外国産の蛙に指を近づけ、おちょくって遊んでいた。
赤と緑の斑点が鮮やかな、手のひらほどの大きさのあるその蛙は、イザに指を近づけられると、エサと間違えて、パクッと大きな赤い口を開いて食らいつく。
歯もないので別段痛みを感じるわけでもなく、イザが指をゆっくり引き上げると、蛙は食らいついたまま、ぷらーんと指にぶら下がった。
「マカベさん。こいつ、腹、すかしすぎなんじゃねぇの?」
蛙をぷらぷらさせながら、イザは、奥のミニカウンターにいた壮年の男に声をかける。
ガウン姿のその男は、上機嫌な様子で、珍しく鼻歌などを歌いながら上物のビンテージワインを開けるとカウンターに置いた二つのグラスに深紅の液体を注ぐ。
「今日はもう、充分に食べさせたよ。やりすぎると、際限なく食うんだ、そいつは」
マカベは、ワイングラス二つを片手に持って水槽まで来ると、イザの腰を抱きよせて、首元にキスを落とす。真新しいキスの痣が、シャツの合間から見えるイザの肌にいくつも覗いていた。
イザは蛙を解放して、水槽に背を凭れさせると、マカベの足の間に自分の片足を割りこませて体を寄せ、唇を交わす。
愛人、とでも呼ぶのが一番ふさわしい関係。
マカベは、巨大外資投資ファンドの幹部だ。彼自身、日系人ということもあって、今は日本国内における様々なM&Aその他投資業務を取り仕切っている。
その関係で、各業界との繋がりも深く、知り合いも多彩だ。さまざまな業界人との付き合いの中で、酒や女などの狡猾油とともにドラッグが必要になることも多く、そのドラッグの部分を、この若い愛人に一手に任せていた。イザは、男の要望に応え、大規模なコカインパーティから個人的な使用まで幅広く様々なドラッグを斡旋している。
イザは、単に、仕事を得るためにマカベとの愛人のような関係を続けているに過ぎない。それは、お互い承知の上だった。
マカベはイザの素性は知らない。そもそもマカベは、彼の『イザ』という名前すら知らない。マカベは、その若い愛人のことを『敬一』と呼んでいた。それは、イザが仕事のときによく使う名前の一つだった。
マカベがイザについて知っていることは、『敬一』という名前とメールアドレス、それに彼に言えば、どんなドラッグでも銃火器でもすぐに手に入るということ。それだけ、判っていれば、十分だ。ああ、それと、
「そういえば、君はテマ辺りに詳しかったね」
濃厚なキスを交わして、息継ぎするようにどちらともなく顔を離したとき、マカベがそんなことを口にする。
イザは怪訝な表情を浮かべると、
「ああ、はい。俺、あそこは長いですから……」
「そうか……」
マカベは、白いものが混じった短い髭の顎を手で触りながら何かを考えると、左手に持ったままだったワイングラスのひとつをイザに渡す。
そのグラスを受け取って、イザは一口、赤い液体を喉に流し込んだ。
マカベは、ワインをグラスの中でゆっくりと回しながら、イザと同じように水槽に寄り掛かる。
「最近、聞いた噂でね。近々、大きな不動産の証券化ものが出るって話があるんだ」
「不動産……証券化?」
「そう。噂といっても…不確かなものじゃなく。かなり、大きな資本が動いている。うちみたいな外資のファンドも注目してるんだが……」
話の繋がりがわからず、イザは眉を寄せて、マカベを見やる。
マカベは、ワイングラスから視線を離さず、
「その証券化の対象として大規模に売り出される……って言われてる土地がね。テマなんだよ」
「テマ……」
「そう。それも、中心街を中心に、かなりの広範囲に」
「え……」
驚きの声が、イザから漏れる。
「そんな、一体、どうやって。だって、あの辺りは、沢山の地権者がいるはずだ。今まで、地上げの話は、数え切れないくらいあったけど。上手くいった試しなんかない」
「そうなんだよ。あのテマって地域は、不動産開発のブラックボックスでね。土地は細分化されてて、しかも胡散臭い所有者も多い。建物だってほとんどが、また貸しに継ぐまた貸しで、権利関係は複雑を極める。……それを、一体どうやって、大規模に売り出すというのか」
マカベは、言葉の合間に、コクリとワインを一息に飲み干した。
「でも、この話が本当だとしたら、土地の所有権を証券化して市場に売り出し、それを元手に巨大な再開発事業が実現するだろうな。それで土地の価値があがれば、証券化した不動産の価値はさらに、跳ね上がる。莫大な儲け話だ。うちとしても、話に乗り遅れるわけにはいかないんだけどね。……その真偽のほどが、まだわからなくて」
(なんだそれ。証券化? 市場に売り出すっての? テマを?)
どうして、そんな突拍子もない話が、降って沸いてきたのだろう。そして、時を同じくして頻発しだしたテマでの神隠し事件。
二つはどこかで、繋がってる……イザは、そんな気がしてならず、せっかくのビンテージワインもまったく味を感じられなかった。

 

 

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